無人島から

誰が見るのか

SNSをやめた話

思い出話だ。

おれは人から愛されないことにかけてはそれなりのもので、家族でさえ俺抜きでも、いっそそっち方がうまく回るものだったが、しかしそれでも、嫌われるということはあまりなかったと思う。それが人との関りが少ないからだと言えばそれまでだが、しかし小学5年生の頃には嫌われるくらいならば関わらんでよろしいという思想をもっていたようだから、そういう生き方を選んだ、あるいはそういう風に生まれたのがおれだったのだろう。

まあ、それはしかたない。どう生まれどう感じるかに善悪などありはしない。すくなくともおれはそれでうまくはないにせよ、平穏無事に生きてきた。

ただし、SNS。これはよくなかった。

まず最初におれの承認欲求を気軽に満たせてしまったのが大きい。たったひとつのいいねがあれば嬉しくなってしまう。電車で隣に女子高生が座った時の感覚に近いと言えばいいだろうか。自分が許されているのだという実感を、おれはあの指先一つで気軽に行える行為に見出してしまうのだった。

そうなってくるとフォロワーもいいねももっと欲しいと思い、頭を捻って受けそうな文章を絞り出そうとするし、つながった人とコミュニケーションをとれるようになりたがった。

しかし、おれのセンスはやはりずれているようで、まったく受けないし、受けるタイプのツイートをしてみて、実際それでそれなりの反応を得たとして、それを自分のものだと受け取ることはできなかった。自分の思うように言葉を発してそれが評価されないのであれば意味がないことに気づいた。おれは自然体の自分を好いてほしがっていたのだが、残念ながら自然体のおれはまったく一山いくら、それにも満たない価値しかなかった。面白みのない男なのだ。まったく思っていなかったわけではないが、しかしそれが数字で表れるのはこたえた。

小説であればいいのだ。だがSNSの評価は自分自身に対する評価だ。少なくとも当時のおれはそう感じていたし、いまでもわりとそう思っている。

だから、フォローを外されることにもいちいち悲しんだりする。とくにこちらが好ましく思っていて、なんどか言葉を交わした相手であればなおさら。

さらに、自分より同時期に初めた人の方にはフォロワーがどんどんついていく。最初はおれと同じくらいだったのだが、辞める前には十倍近い差になっていた。

こういう理由で、おれはSNSをやめた。いまでは見ることしかしていない。フォロワーは自動でフォローを返すアカウントのものだけで、一桁だけ。

ようするに、おれにはSNSは向いていなかったのだ。それだけの話でしかない。

そしていま、おれはいまブログを書いている。自分の思うように。

楽しいとは思わないけど、悲しくはないし、書くという行為でおれはリラックスできるので、悪くはない。

今日までの閲覧数はたったの2。それくらいでいいのだ。簡単に反応を貰えてしまうのが良くなかった。

いつか、この文章が誰かに見つかる日は来るのか。

なんて、無人島にいる気になっておれは書いている。どこにもたどり着かなくても、まあ、いいや。死ぬわけでもなし。